内容説明
隠元禅師像が「初登の地」長崎興福寺に設置される
日本福清同郷会 2021年11月06日 19:02
11月5日、長崎県文化振興課の主任主事である百田成玉氏が発表した情報によると、長崎東明山興福寺にて11月14日に中国側から寄贈された隠元禅師像の除幕式および梵鐘の使用開始式が行われます。この式典には中日双方の関係者がオンラインとオフラインの形式で参加する予定です。
この隠元禅師像は、中国の彫刻家であり中国美術館館長でもある呉為山氏が、興福寺の創建400周年を記念して制作した作品です。像は興福寺の入口に永久設置され、高さ3.28メートル、重さ438キログラム、素材は銅で作られています。この彫刻作品は17世紀の名僧である隠元禅師の風貌を生き生きと表現しており、訪れる参拝者が鑑賞できるようになっています。台座には日本の篆刻家である師村妙石氏が「隠元禅師像」と題字を刻み、中日両国の芸術家による協力を通じて、両国の平和協力への願いが込められています。さらに、中国福建省から寄贈された「世界和平鐘」は今年2月26日に興福寺鐘鼓楼1階に設置され、11月14日に同日に撞鐘式が行われる予定です。隠元禅師像と梵鐘は中日友好の象徴として、世代を超えて語り継がれることでしょう。
興福寺は1620年に建てられた日本最古の唐様建築の寺院であり、中日文化交流の長い歴史を物語っています。もともとは明代の貿易商人が海上安全を祈願するために建立した媽祖廟でした。現在の住職は松尾法道氏が務めています。
興福寺は、隠元禅師が日本に渡り、最初に弘法を行い住持となった寺院です。寺内には現在も、隠元禅師が手書きした扁額や対聯などの遺作が保存されています。1654年、隠元禅師は長崎興福寺住持である逸然性融および在日華人の招待を受け、63歳の高齢で弟子たちとともに日本に渡りました。興福寺に上陸した後、住持を務め、のちに皇室や徳川幕府の支援を受け、京都宇治に臨済宗黄檗派(後の黄檗宗)を創設しました。黄檗宗は明治時代以降、日本の三大禅宗の一つとなりました。
隠元禅師は仏教の教えを広めただけでなく、中国の思想、建築、彫刻、書道、印刷、絵画、音楽、医学、料理、茶道など、多くの文化や技術を日本にもたらしました。これらは「黄檗文化」として知られ、中日文化交流史において重要な役割を果たしました。
2022年は中日国交正常化50周年を迎えます。隠元禅師像が400年の歴史を持つ興福寺に立てられることは、中日両国の努力による成果です。この像は、より多くの日本の人々や海外からの観光客に中日交流の歴史を伝えるとともに、芸術を通じて人々の心を温め、中日人文交流を深め、絆を強める願いを象徴しています。